画材について
文房四宝
墨に魅了され
ご存知の通り墨には千年以上の歴史があり、またその墨色は東洋の美意識に深く関わっております。墨そのものが持つ神秘的な力を信じ、フランスの光や影そして空気までも表現しようと試みました。
制作に際しましては中国の明代、清代の貴重な古墨を使用し、筆や紙も厳選いたしました。墨色の中に潜む微妙な美しさを新しいスタイルの墨絵の中に感じ取っていただければ幸いです。
以下の文房四宝は実際に私が制作に使用したものです。
玄香太守
明末 程君房
蔵墨 嘉慶墨
清末
古歙州硯
金雲金星
御製詠墨詩墨
楽寿堂蔵墨 乾隆年製
古端渓硯
魚脳凍
寿山石 康煕年製
細光峰羊毛筆
「墨は古いほうがいい。明墨が最高だ。」
とよく書家や水墨画の先生方がおっしゃいます。
確かに古墨、特に明代の墨は新しい市販の墨と全く違います。形や図柄等、実に凝っておりそれ自体が工芸品の美しさです。また大きすぎて硯からはみ出すものや、円形の墨のようにどこから磨っていいかわからないものまであります。また眺めていても楽しいので古墨愛好家の方々の気持ちがとてもよくわかります。
しかし実際に磨って墨汁とした場合、私自身は古墨がすべての場合において最高とは言い切れないと思っております。誤解のないように申しますと、私の作品制作にあたっての場合であって、書家や水墨画家の諸先生方の制作スタイルとは違いますから、あくまでも個人的な意見として読んでいただければと思います。
明代と清代を境に墨の製法やスタイルが大きく変わったのではないかと想像します。清代の墨を磨って得られる墨汁は現代の物に比較的近いと思われます。明代の墨の墨汁は全く別物で、現代にこのような性質の墨は作られていません。
まずにじみに特徴があります。宣紙の上に一滴の墨汁を置くと中心部は黒くなり、周りのにじみは柔らかく比較的薄い色でにじんでゆきます。ただその中心の黒と周りのにじみには極端な差があり、徐々に黒からグレー、そしてだんだんと透明に、というグラデーションが出ません。絵画のデッサンのようにグラデーションを用いて遠近や立体感を表現したい場合にはとても使いづらいのです。ただ、その黒が明墨ならではの美しさで、まるでベルベットのように深く上品で、紫や青などの底色を黒の中に感ずるのは驚くほかありません。科学的な理由はわかりませんが、時間の経過により炭素の粒子の結合が変わるのか、当時の墨の製法自体にそのような性質がもともと備わっていたのか、またその両方が作用しているのかもしれません。この黒を知ってしまうと他の墨には代用はできないと思わざるを得ません。
清朝以降の墨は現代の墨に似てグラデーションが出やすく、とても使いやすいものです。特に乾隆御墨のようにていねいに作られた墨は黒につやと品があり、主に油煙墨ですから、淡墨にすると柔らかいセピアトーンがとても美しいものです。日本では青墨が好まれますが、油煙墨(茶墨)の墨色は茶色の中にほんのり紫色を感じ、美しいので私はよくフランスの石造りの建物などを描くときに使用します。
結局、墨はただ古ければいいというものではないと考えます。特に古いといわれる墨の99パーセント以上がイミテーションです。古めかしく現代に作られた偽物なのです。私もたくさん使って経験しました。それらは全く使用に耐えないといってもよかろうと思います。
日本の墨(和墨)はかなり優秀です。特に明治以降の墨は日本独自の技術と職人の技術力が合わさって素晴らしい墨が多く、そんな墨と出会うことも多いものです。私は伸びがよくつやのある和墨で線描きを行い、明墨で夜空を描き、乾隆御墨でグラデーションを作ります。これは邪道かもしれませんが、墨それぞれの個性を発揮させてやることも制作においては必要なことと考えます。また明墨のような300年以上前の墨は文化遺産と考えるべきで、いたずらに磨り潰してしまうことのないようにしなければならないでしょう。
YouTube に墨について私が解説した動画が上がっております。そちらもご覧ください。